大阪の淀屋橋・北浜に近い中之島中央公会堂。その歴史ある建物で共に居合を研鑽しませんか。

HOME >> 道場について

洗心道場錬正館

洗心道場錬正館は、無双直伝英信流正統第二十代河野百錬宗家から、直門直弟子であった谷島錬正が、殺伐とした社会の中で疲れた心を、真の居合道で洗い清めよとの意にて「洗心道場」の名を賜り、谷島師の「居合いとは動く禅であり、その精神を含んだ心身の修行である。その上で技の錬磨に努め心を清めると共に、よき社会人としての人格形成をなす。」という精神を基に、二十二代池田御宗家の述べられる「流派の掟を守り、己が居合道研鑽の心を持つ事の大切さ」と言う教えを守りつつ日々努力しております。

当館は全日本居合道連盟 近畿地区居合道連盟に所属しています。

洗心道場錬正館創設者 谷島錬正

谷島一雄錬正 略歴

大正十二年九月二十四日(月曜日)に大阪市内にて生を受ける。昭和二十年出征し「中国」へ派遣、戦争を体験するも体調を崩し帰国除隊。内地の病院に入院。昭和二十一年父が経営してた「朝日新聞谷島販売店」を引き継ぎ業績を拡大するも、戦争で痛めた体の回復を目標として昭和の名人と言われた正統第二十代宗家河野百錬の直門に入り居合道兵法無双直伝英信流の研鑽に励む。新聞販売店の業績は順調に伸び大阪地区販売店会の会長に就任、業界発展の為に尽くす傍ら河野百錬には週二回以上教えを受け、且つ家族ぐるみの交流を深める。

昭和三十七年初段・三十八年弐段・三十九年参段・四十年四段・四十一年五段・六段は飛び段をして・四十二年錬士・四十五年七段・四十九年教士・五十四年八段・五十八年範士となる。この間、百錬宗家が主催する八重垣会運営事務局長を務め斯道発展に寄与する。

昭和四十年に現在中之島にある朝日新聞社内に「無双直伝英信流・朝日新聞道場」を設立・二十代宗家河野百錬より「錬」の一字を頂く。因みに「錬」とは心体を練り鍛える。刀を万遍打ち鍛える意であり、正しい居合いを錬磨研修する者として錬正と号した。「実行有言」「基中有妙」を道場の是と掲げ多くの有能な剣士を育てた。「実行有言」とは自らが実行し納得して後に初めて口を開くもので有るという。「基中有妙」とは基本中の基本の中にこそ居合の真髄有り」と宗家に教えられしを館是として今日に至っております。

その後、朝日新聞社屋の改修に伴い、道場を千里中央にある朝日ビル柔剣道道場にて後輩の指導に当たって居たところ、朝日カルチャーの強き要望によりカルチャーの講座の一つとして「居合道教室」を開くに当たり従来の朝日新聞道場から「洗心道場錬正館」と改め今日に至る。

二十代宗家・河野百錬急逝の後、当代二十二代宗家池田聖昂父君池田昂淳範士の絶大なるご努力により二十一代宗家として福井虎雄が宗家を継承する。谷島錬正を次期宗家として推薦多数有りたるも、業務多忙を理由に固辞される。また、錬正は自己の居合道研鑽に重きを置かれていたとご遺族の話がある。良き一例として、平成七年十一月の橿原神宮奉納演武会には体調非常に不例にも拘わらず弟子が奉納演武をするのを見るのが楽しみとご家族に付き添われてお出でになられた。また、一切月謝を取られる事なく、弟子の成長を無常の喜びとされてた。反面とても厳しくご教授された記憶がある。道場には誰よりも早く来られ、お一人で抜いて居られたのをしばしば拝見。早く道場に来ることが出来た弟子には基本の大事さを説かれ、稽古に於いては弟子が気が付き直すまで根気よく同じ指摘を繰り返して指導された。

平成十九年は谷島錬正の十三回忌に当たり六月末日に錬正ゆかりの諸先生方のご来駕を得、「偲ぶ会」を催しました。これを機に谷島亡き後十三年間二代館長を務めた木下淳は後見人に、教士谷健一郎は従来よりの敬山塾に専心(錬正館相談役)、八段奥田良雄が館長に就任致しました。谷島錬正愛用の丹波守藤原照門、関善定作之二尺四寸四分を錬正館の宝刀として歴代館長が所持することになりました。現在の館員は十九名。女子四名、男子十五名が毎週正統宗家二十二代の教えを守って稽古に励んでおります。